ページスタート本文にジャンプできます。メニューへジャンプできます。トップページへ戻ります。
ビジュアルエリアスタート
library

ホームライブラリー調名誉会長アーカイブ > いくつかの問題〜新世紀のはじまりに〜

コンテンツエリアスタート
ここから本文です。

ライブラリー

いくつかの問題〜新世紀のはじまりに〜

『ゼンコロ125号』2001年01月

 人は皆、幸福を得ようとしてあくせく生きています。しかし、この幸福という奴はなかなか厄介で掴みにくいものです。掴んだと思ったら短時間のうちに煙のように消えていってしまう、不確かな存在です。
 科学・技術の発達によって生活の利便さや物質的な豊かさが飛躍的に向上したのに、人々の心は満たされているとは言えません。忙しく立ち働き、心に余裕をもてないストレスの大きい社会の中に生きています。
 人生には完成というものはありません。しいて言えば人間として生まれたことが、その時代の完成品といえるのかもしれませんが・・・。人間(だけではありませんが)は1人で生まれ、1人で死を迎えるのであり、人生の過程を自分とその子孫のためだけに生きる動物です。他者のために行動しているように見えても、それも自分自身のため以外ではありません。70余年を生きて、私はそう思うようになりました。かつて福祉の分野で働く人々は、他者のために献身する人として尊敬された時代がありましたが、最近では心の充実を得やすい分野で働ける幸せな人々とみられるようになっています。
 人が自分自身のために生きるということは、すべての人々がそうなのだから、他者への配慮なしには自分自身も生きられない、という認識につながるのです。
 社会のため、あるいは他者のため命をかける、などという人がいますが、そういうことを言う人は嘘つきで信用できない人です。
 福祉分野で働くのは他者のためではなく、自分自身のためであることは、今では周知のことです。ボランティア活動など無償の行為が自分のためであることは、今日では誰でも知っています。
 人間が自然の産物であり、自然から離れては暮らせないことは、生活の利便性を求めて人工化した都市で長く暮らしてみるとよくわかります。自然から離れたところで生まれ育った人々の中の生態に、その歪みが顕著に表れはじめています。人工の中で育ち成長した人、その人から生まれ育ってくる人々は自然の力を知りません。1〜2人の子どもの養育さえ適切にできない親の多いこともひとつの象徴です。
 21世紀は自然への回帰を大きいテーマとしなければならないでしょう。
 そういうことを含めて、すべての人々の人生の幸せを求めて、歴史の教訓を生かしつつ、あくせくと追求していかなければならないと思います。

 それにしても、この世紀末と新世紀、なんともすっきりしない移行でありました。産業社会からITに先導された知識(価)革命への移行過程の最中の世紀の移行であり、希望をふくらませる新年であってよいはずでした。それが先行きの不安や政治の混迷、一向に効果のあがらない景気対策などに起因してか、もうひとつ気勢があがりません。
 障害者問題は、社会福祉基礎構造改革という名のもとに、いささか見当違いの制度変更が行われ、障害分野は前進的な構造的改革というより、基本のところで後退がありました。
 私は昨年の9月に障害認定問題の調査にヨーロッパ(イギリス、フランス、ドイツ、オランダ)を訪問しましたが、すべての国が措置制度的な方法で障害者福祉を実施しており、選択や自立性、対等性が損なわれていないことを改めて確認しました。利用料負担を前提とする契約制度など、どこの国にもありません。また、障害者福祉の諸サービスを受けるとき、親の役割とか責任について聞くと、その質問の意味さえ理解できず、繰り返しの質問に唖然としたように、「親は関係ありません」ときっぱり答えられましたが、当然とはいえわが国の後進性を改めて考えざるをえません。
 日本は利用料についても妻や子どもの所得も合算しますが、欧米では食費は自己負担を原則としてはいるものの、利用料負担という考え方はありません。
 構造改革での措置制度が悪の根元であるという理論構成に問題があったのです。
 この後退を実施段階でどう食い止めるか、あるいは少なくするかが当面の課題のひとつです。
 全体としての課題は、すでに多くの関係者の間でコンセンサスを得ている『どんな障害のある人も地域の中で安心して暮らすことのできる社会の実現』です。今世紀のいつ頃までに実現できるか、それは障害者運動の力量にかかっています。
 障害者の自立を困難にしている大きい原因というか、背景には古い家族制度の温存がありますが、ここに着目した国民的運動を組織する構えが必要です。また、所得保障、地域ケアシステムの構築(介護、家事労働支援、社会参加の仕組み、など)が具体的な課題です。
 これらの課題は、これまでの一般的な福祉施策や、教育、医療、就労対策、バリアフリーなどの施策をより深めつつ、国の社会制度の基本(家族制度)にもかかわる内容を含んでいるだけに、政治の舞台での本格的な論議が不可欠です。所得保障問題も国の社会制度の重要な課題であり、国のかたち造りそのものでもあるため、政治のイニシアティブが必要です。いずれも役所に要請するだけでは前に進む問題ではありません。早く政治の舞台にあげていくことが必要です。
 残念ながら最近の政治は、国のための政治というより、政治家のための政治という側面がクローズアップしており、混乱があって、これらの諸課題を政治に持ち込むのに適切な時期とは言えない状況です。
 しかし、政府も民間も“完全参加と平等”“ノーマライゼーション”を掲げている以上、これをやり遂げる責任があります。国民のための政治の実現についても、私たちは努力しなければなりません。

 ここ何年か前から、私は仕事からの引退を真剣に考えるようになりました。それは体力の衰えと、それにともなう能力の低下を自分で感じはじめたからです。今年中には実現したいと考えています。なにしろ片肺のうえに気管支外瘻をもつ内部障害に加えて、いくつかの生活習慣病に悩まされてもいるからです。
 そうした中で、次の世代のことをいやでも考えるようになりますが、そこでいろんな思いをしています。私は昭和34年、32歳のときこの分野に入りましたが、当時結核回復者コロニーの建設事業にかかわっていたのは、私と前後5歳位の年齢層の人たちでした。現在ではそのほとんどが死去したり、退職したりして第一線を退いています。皆、結核療養を経験した人々で、議論好きで、酒を飲みながら朝まで議論をするごつい連中ばかりでした。どちらかと言えば攻撃型で、親分肌の人間の集まり(ゼンコロ)でした。
 その後を継いで今、ゼンコロ各法人の運営の中心にいる人々は総じて言えば温和で、受け継いだものを大事に守っているというところです。法改正や制度づくりのために行動し、施設と事業を興し、つくりあげた初代とは経験も仕事の幅も大きく異なり、そこには大きい断層があります。環境が人を造ると言いますが、戦後の何もないところから福祉をつくりあげた時代の人々と、それを引き継いだ今の人々との間に大きい断層ができたのは当然と言えるでしょう。
 しかし、障害分野は、真の意味の福祉はこれから造らなければなりません。タテ割り制度の中で、自分の関わっている障害分野しか知らないとか、今の職場の中に埋没していて、全体が見えないか、あるいは見ようとしない人を増やしているように思います。障害者問題は社会全体をよくするための事業でもあります。それに挑戦できるマンパワー(リーダーたち)をどう育てるか、大きい課題であることを改めて考えさせられています。

このページの先頭へ
インフォメーション

PDFファイルをご覧頂くためには「Adobe Reader」が、またFLASHコンテンツをご覧頂くためには「Adobe Flash Player」が必要です。下記より入手(ダウンロード)できます。

  • Get Adobe Reader
  • Get ADOBE FLASH PLAYER

このページはアクセシビリティに配慮して作成されており、障害者や高齢者に優しいページとなっております。

  • Valid XHTML 1.0 Transitional
  • Valid CSS!
  • WebInspectorチェック済み
  • ColorSelectorチェック済み
  • ColorDoctorチェック済み

ページエンド